前職では放火魔と呼ばれていました

以前勤めていた会社はそこそこ大きな企業だったので、避難訓練はかなり本格的な行事だった。地震と火災を想定した避難訓練からはじまり、消火器体験、AED講習と消防団を招いての半日がかりだ。

少し補足させてもらうと、この会社には「避難訓練の訓練」なる日があった。それは、消防団を招く「避難訓練本番」をスムーズかつスマートに行うために用意された避難訓練の予行練習だ。と、まあ百歩譲ってここまでは分かる。

しかし、その年はグループ会社の社長が「避難訓練の訓練」を見学しに来るという。社長にお粗末な姿は見せられないと考えた会社は、「避難訓練の訓練、の訓練」を行うことにした。…こんなに訓練いる?

結局、避難訓練は本番前に2回と本番1回の計3回行われた。

話を戻すが、問題は私の設定だった。私は上司から事前にある役割を与えられていたのだ。それは「地震後の火災で負傷し、5階から担架で運ばれる役」である。

ついに私の内なる女優の素質が見抜かれたか、ならば仕方あるまい、私が開花するのは一般事務ではなく華やかな表舞台だということをここで証明してやろうとはならない。担架で運んでもらう役とはなんだ。もっと私に似合うハッピーでキュートでラブリーな役をもってこい。話はそれからだばかもの。と言いたいところだが大した活躍もせず、大抵のことは愛嬌で乗り越えてきた無能事務の私に断る術はなかった。周囲の冷やかしの目につられて笑い、緊張感もないままに訓練の日を迎えた。

 

訓練当日。

けたたましい非常ベルの音が鳴り、100人以上の従業員が一斉に階段を駆け下りていく。私はこれから負傷するので邪魔にならないよう別室で待機。

窓の外から整列をはじめた従業員の点呼の声が聞こえた。

「報告です!経理部!○名全員無事を確認しました!」

「報告です!営業部!〇名全員無事を確認しました!」

「報告です!総務部!○人中○人確認!うち1名、おさしみさんの確認が取れません!!!」

これが担架隊出動の合図だった。

厳粛な顔で整列していたエネルギッシュな先輩社員2人が上司からの指示を受け、列を抜けて担架を持ってやってきた。

「おさしみ~おまたせ~」

「たすけにきたよ~ん」

弊社の若手サラリーマンは、緊迫した空気から上司の目が届かない安全地帯に来るとちょける。

 

しかし、私も年頃の女性。担架で運ばれるのはやっぱりというかかなり恥ずかしい。

「やば、これ思った以上に恥ずかしいっすね」というと「顔にタオルでも被せとけば?」と返ってきた。その手があったか。

担架に仰向けに寝転んだ私は、自分の顔の上にハンドタオルをそっと載せた。手は置き場が無かったのでとりあえず腹の上で軽く組んだ。

 

もしかしてこれはすでに死人では…?

 

気付いた時にはもう遅い。担架は、静かに整列する全従業員の前をえっさほいさと通過していた。ふざけてはいけない空気の中、視線はもちろん担架に注がれる。会社の受付をしていた私は顔が広く、「おさしみが怪我して5階から運ばれる役らしい」という情報は同僚の中では筒抜けだった。そんな中、いきなり「ご臨終」の状態で登場したものだから一斉に(((なんでやねん)))という空気になっていた。

同期は我慢できずグフッと漏らし、私が会社で一番尊敬し憧れていた先輩までも肩をプルプルさせていたらしい。

その後、上司が報告の為大きな声を出す。
「総務部!負傷者の無事を確認しました!なお、今回の火災は5階給湯室からの出火が原因であります!」

ここで一度状況を整理する。
私は火災で負傷し、5階から担架で運ばれる役。
火元は5階の給湯室。
逃げ遅れは一人。

火災の犯人、私では?そしてこれは最初の訓練。

 

あと2回、私は会社に火をつけ100人近くいる従業員を整列させる。

その日からしばらく、私は同期や先輩から放火魔と呼ばれたのであった。

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